倫理の貧困

哲学的認識論だけではなく、哲学的倫理も貧困だ。
そもそも、倫理は個人レベルではなりたたないのに、完全に視点を個人にあててぐちゃぐちゃ言っている。ロビンソンクルーソーの生活といえども、かつて自分が属していた社会の仕組みを、個人レベルで明瞭に示し、それに従ったからこそ可能になった。生まれた時からひとりぼっちで育った人間が、言葉を持つ筈も無い。倫理は複数の人間の存在を前提とし、人間関係が複雑になるほど、大きな意味を持つ。当たり前だ。今、人間にとって倫理感覚が希薄になったのは、貨幣経済と市場原理が、人間を個レベルに解体してしまったからだ。しかし、その背後には、膨大な複雑系の社会があるから、潜在的な倫理への要求は無くならない。いや、もの凄いインパクトを持つ可能性がある。社会は、倫理を必要とするのだ。