複数の過去、ロゴスの展開としての過去

実際に起あった過去以外に「あり得た過去」があったとすれば、カントやヘーゲルの「隠された自然の計画」「神の狡知」の実現としての歴史はどうなるのか? それはなかったことになるのか? あるいは、複数の計画があったことになるのか? あるいは、無数の計画があり、そのうちの一つが選択されたことになるのか?
あるいは、実際にあった過去は、その過去が生じるまでは自由であり、生じた瞬間に必然に転化してしまったのか? あるいは、やはり、自由に選択したと思い込んでいるだけで、実際は神の操り人形としての人間が見た夢にすぎないのだろうか? 
熊野純彦の、「西洋哲学史」では、アウグストゥヌスやスコラ哲学者は、過去、現在、未来について、ありとあらゆる可能性と、その神の全知全能性との関係を議論していたようだ。
実に興味深い。人間が、そういう問いを持たざるを得ないことこそ、何かを示しているのではないかと思う。
そこには、個々の人間の自由と、その人間を含む社会と自然の総体としての展開との関係が隠されている。個々の人間でも、遺伝子という設計図を逃れることはできない。しかし、遺伝子操作ができるように、人間の決意、権力者の恣意が、歴史展開の大きなモメントになり得る。それは、そもそも、言語の無数の組み合せ、思考の恣意的組み合せでさえ、ある影響力を持ち得ることにも示されている。私は、未来にあり得る複数の未来があるように、過去にもあり得た複数の過去があったこと、しかし、常に、ひとたび生じた過去は決して変えられず、それを前提に現在と未来あるということが、真実であると思う。
過去の中に繰り返しを見て、そこに因果関係の連鎖=必然性を見いだすことも、逆に過去の偶然性を見る事も、ともに可能である。人間が「なぜ?」という問いを発すれば、ロゴスが意識のなかに現れる。ロゴスは、なぜ?という問い自体に起因して展開されるのだ。 何故なら、偶然に理由はないから。