ちっとは大学院生らしくなったかな

意識としては、格段に深く「哲学倫理専攻の大学院生」らしくなってきた。
次から次へと、ある種のプレッシャーが、自分を変えていく。
考えること、学ぶこと、頭脳の中の細胞が活性化している。
ヘーゲル
時代精神を超えることができないというヘーゲルの言い方は、自己限定であるが、「時代精神」をとらえ尽くすことは、すでにその時代が終わったこと、あるいは終わろうとしていることを示している。ヘーゲルは、時代の合理としてのプロシャ国家の終焉を認識したのではないか?
時代精神は、どこまでか? その始まりと終わりはどこか?
民族精神というのは、普遍的なのか? ヘーゲルは自分の精神をドイツ的という限界になるものとして考えているのか?
あるいは、ドイツ的=普遍的ということか?
あるいは、普遍的なものがあると考えていないとすれば、ドイツ的が世界的精神の代表となることとはどういう意味か?
それは、デモーニッシュなこと(トーマスマン)ではないのか?
それは、フランシスフクヤマアメリカを支配的な世界精神として、最終的理想型と考えたことと同じか? あるいは、金子武蔵が日本をモデルとして構想したことと同じか?
視点を限定されており、それは見える世界を限定する。しかし、その視点を反省することもできる。反省の限界は、種、時代の総体であるが、人間は、それをも反省することができる。視点の限定は、事態をクリアに整理秩序づけるし、視点を無限定化すれば、混迷に陥る事は明らかだが、他方で視点の限定は抽象的虚構を作り出す。スコラ哲学、ヘーゲル哲学のように、視点そのものについての論争により、それらを大量に検証することにより、人間は視点の限界を乗り越える武器を鍛えることができる。それが形而上学、論理学の良さだ。ヘーゲルの凄いところは、ありとあらゆる哲学、精神的所産を、その視点の限定性の指摘とともに、それを全体のモメントに取り込み、位置づけていることだ。いや、限定抜きに、意味あるセンテンスはできないのに、意味あるセンテンスを孤立させれば、抽象的で虚しいものとなる。しかし、意味あるセンテンスを使わない限り、現実を記述することはできない。しかし、その生命は、運動のプロセスそのものにある。