カント学者S教授

S教授は、実に誠実なカント学者だと思う。講義内容も面白い。何が面白いかというと、それが完全に教授の信念の表明であるからだ。学問を誠実に探求してきた結果としての信念は、聞いていて心地よい。私のように学生としては、少し素直さを失った年寄りから見ると、うらやましいくらいの一途さだ。ただ、やはりそれが研究室や書斎に閉じこもった者特有の思索だなあと思ってしまう。今度、疑問をぶつけて見よう。その一つは「意思の自由」と「善意思」の関係である。意思の自由をとことん擁護すれば、それは必ずしも「善意思」とはならない筈だ。悪意思もまた、自由な意思の帰結であり得るのではないか。もうひとつ、「善意思」を完全で無条件の善とするのは、「実現されず」「主観の中に純粋にとどまる場合」のみではなかろうか。ある意思を実行するならば、それは必ず結果を伴うことになる。結果のない行為はなく、行為することを目指さない意思はない。結果の如何を考えない意思、それは善であり得るのであろうか。ある意思が善意思か否かを判定する基準が、自分の行為がいかなる結果をもたらすかであるということになると、カントの論理は成り立つのか?
いや、S教授の誠実さは、そんな話の中にはない。まさに、善意思をとことん貫こうとする迫力が感じられる。多分、そこに回答があるのだ。

ちっとは大学院生らしくなったかな

意識としては、格段に深く「哲学倫理専攻の大学院生」らしくなってきた。
次から次へと、ある種のプレッシャーが、自分を変えていく。
考えること、学ぶこと、頭脳の中の細胞が活性化している。
ヘーゲル
時代精神を超えることができないというヘーゲルの言い方は、自己限定であるが、「時代精神」をとらえ尽くすことは、すでにその時代が終わったこと、あるいは終わろうとしていることを示している。ヘーゲルは、時代の合理としてのプロシャ国家の終焉を認識したのではないか?
時代精神は、どこまでか? その始まりと終わりはどこか?
民族精神というのは、普遍的なのか? ヘーゲルは自分の精神をドイツ的という限界になるものとして考えているのか?
あるいは、ドイツ的=普遍的ということか?
あるいは、普遍的なものがあると考えていないとすれば、ドイツ的が世界的精神の代表となることとはどういう意味か?
それは、デモーニッシュなこと(トーマスマン)ではないのか?
それは、フランシスフクヤマアメリカを支配的な世界精神として、最終的理想型と考えたことと同じか? あるいは、金子武蔵が日本をモデルとして構想したことと同じか?
視点を限定されており、それは見える世界を限定する。しかし、その視点を反省することもできる。反省の限界は、種、時代の総体であるが、人間は、それをも反省することができる。視点の限定は、事態をクリアに整理秩序づけるし、視点を無限定化すれば、混迷に陥る事は明らかだが、他方で視点の限定は抽象的虚構を作り出す。スコラ哲学、ヘーゲル哲学のように、視点そのものについての論争により、それらを大量に検証することにより、人間は視点の限界を乗り越える武器を鍛えることができる。それが形而上学、論理学の良さだ。ヘーゲルの凄いところは、ありとあらゆる哲学、精神的所産を、その視点の限定性の指摘とともに、それを全体のモメントに取り込み、位置づけていることだ。いや、限定抜きに、意味あるセンテンスはできないのに、意味あるセンテンスを孤立させれば、抽象的で虚しいものとなる。しかし、意味あるセンテンスを使わない限り、現実を記述することはできない。しかし、その生命は、運動のプロセスそのものにある。

指導してくれる教授たち

修士課程開始にあたり、次の科目を登録した。
山内志朗 「中世哲学(ドゥン・スコトゥスを中心に)」
②渋谷治美 「カント人間思想の総合的理解の試み」
③樽井正義 「ヘーゲル法哲学
④樽井、山内、奈良、谷、柘植 「各人論文発表とディスカッション」
順序は逆になるが、いずれも秀逸な選択と思っている。何よりも、教授たちが素晴らしい。

④は、「倫理専攻の者で参加しない者は大学院を去れ」と言うもの、ここでは、教師も学生もなく、自分の研究成果を発表し、ディスカッションする授業。半学半教(学生が教えあう)という福沢思想もそこにはある。自分も、7月に発表することになっている。
③は、自分の研究テーマそのもので、指導教授である樽井さんのもとで、最も主体的に取り組むべきものである。とりあえずであるが、ヘーゲルの原書をゴリゴリゴリとドイツ語で読み進み、夏頃までにはスピードアップして、1年以内に読みきるようにしたい。
②の渋谷氏の最初の講義を聞いたが、さすがに一流のカント学者だけあり非常に深いものがある。また純粋理性批判を「人間賛歌」として理解する視点は、自分としても納得できるものだ。そもそも、カント抜きのヘーゲルはない。ヘーゲルがカントと格闘して、それを超克しようとしたことは明らかなのだから。
①は、これが「眼からウロコ」だった。中世哲学に対する偏見を見事に払ってくれそうだ。大学のはじまりは、パリに集まった学生(その中の優れた者が教師として皆から認められた)たちが、カフェや道端で討議する組合のようなものだった。そこから形成された学生自治、自由学芸こそ、中世哲学の原点だった。アリストテレスを極め、そこからプラトン主義に染まっていたキリスト教神学を再編する過程で生れたスコラ哲学の命題集は、別の光を当てられる必要がある。特に、ドゥン・スコトゥスは非常に興味深い。へーゲルを生み出した精神的哲学的土壌である中世哲学は、どうしても、学んでおかなければならないと思った。
それにしても、山内志朗氏の、博識と諸領域への関心の広さ・深さは凄い。スコラ哲学研究から現代のアニメ、映画、音楽まで語る。実に面白い先生だ。最初の授業で、中沢新一の「はじまりのレーニン」を名著だと紹介したのには驚いた。以前読んだことがあるので、読み直したが、中世哲学との関係について書かれているところも面白いし、レーニン自体も従来とまったく違った角度から魅力的に書かれている。

複数の過去、ロゴスの展開としての過去

実際に起あった過去以外に「あり得た過去」があったとすれば、カントやヘーゲルの「隠された自然の計画」「神の狡知」の実現としての歴史はどうなるのか? それはなかったことになるのか? あるいは、複数の計画があったことになるのか? あるいは、無数の計画があり、そのうちの一つが選択されたことになるのか?
あるいは、実際にあった過去は、その過去が生じるまでは自由であり、生じた瞬間に必然に転化してしまったのか? あるいは、やはり、自由に選択したと思い込んでいるだけで、実際は神の操り人形としての人間が見た夢にすぎないのだろうか? 
熊野純彦の、「西洋哲学史」では、アウグストゥヌスやスコラ哲学者は、過去、現在、未来について、ありとあらゆる可能性と、その神の全知全能性との関係を議論していたようだ。
実に興味深い。人間が、そういう問いを持たざるを得ないことこそ、何かを示しているのではないかと思う。
そこには、個々の人間の自由と、その人間を含む社会と自然の総体としての展開との関係が隠されている。個々の人間でも、遺伝子という設計図を逃れることはできない。しかし、遺伝子操作ができるように、人間の決意、権力者の恣意が、歴史展開の大きなモメントになり得る。それは、そもそも、言語の無数の組み合せ、思考の恣意的組み合せでさえ、ある影響力を持ち得ることにも示されている。私は、未来にあり得る複数の未来があるように、過去にもあり得た複数の過去があったこと、しかし、常に、ひとたび生じた過去は決して変えられず、それを前提に現在と未来あるということが、真実であると思う。
過去の中に繰り返しを見て、そこに因果関係の連鎖=必然性を見いだすことも、逆に過去の偶然性を見る事も、ともに可能である。人間が「なぜ?」という問いを発すれば、ロゴスが意識のなかに現れる。ロゴスは、なぜ?という問い自体に起因して展開されるのだ。 何故なら、偶然に理由はないから。

過去について

過去については、それを「記憶」としてとらえ、それゆえ「現在から見た過去」であるという人がある。それでは、過去はさまざまあり、しかも変えられることになる。
確かに、過去は記憶によって保存されるし、記録によっても保存される。しかし、それはすでに保存されたもの、現在の人間たちによって料理される対象となったものであり、過去そのものではない。「過去は、変えられない」。過去は、決して手のとどかないものであり、しかも現在は、過去を前提にしてのみ存在するという事実は、立論の前提となるものではないかと思う。その上で、未来が過去を原因とする必然であるかどうかが問われることになる。仮に、そうであるとすれば、過去のすべては必然であったということになる。自由は、あくまで未来に関することであり、未来の可塑性にある。それが証明できれば、過去についても「あり得た複数の過去」があったことになる。

ノートに移行する前の覚え

これから、修士論文を第一に考える必要がある。この日記には、引き続き思いつくまま、書散らす事とし、修士論文用には、別にオフラインで、ノートにしていく事とする。
今、思いついている事、一つ。ヘーゲルとカントの親近性。例えばカント「世界市民という観点からみた普遍史の理念」第八命題「自然の隠された計画」”人類の歴史の全体は、自然の隠された計画が実現されるプロセスとみることができる。自然が計画しているのは、内的に完全な国家体制を確率することであり、しかも、この目的のために外的にも完全な国家体制を樹立し、これを人間のすべての素質が完全に展開される唯一の状態とすることである」とし、「この命題は、第七命題から導く事ができる」としている。第七命題とは、国際連合、永遠平和、そして自然に目的があるのか、ないのか、・・・などなど、人類が避けて通る事ができず、また、それに失敗するならば「輝ける悲惨」が続くことになる・・・という命題である。これは、命題なのか、課題なのか、願望なのか、必然なのか。
もう一つ、トーマスマンが、「ドイツとドイツ人」で述べていることは、注目に値する。ヘーゲルを理解する上で、ヘーゲルという精神を形成する基盤となった「ドイツ的なもの」を、ダナチス崩壊と第二次大戦後、米国市民となったばかりのトーマスマンが、ドイツ精神について、自己批判的に語ったこの講演ほど、深いものは少ないのではないか。そして、ヘーゲルをドイツ的なものとの関係で理解することは、ヘーゲルの真に世界的な意義を逆に照明するものではないかと思うのである。もちろん、例えば「ドイツの歴史」のエッセンスを知る事は、トーマスマンを理解する上でも必要なことである。

さまざまなヘーゲル像

論理学として切り取ったヘーゲル現象学の一種として取り込まれたヘーゲル実存主義の味方または敵としてのヘーゲル、カントによって批判された超越的認識を抜き去った、経験科学に還元されかねないものとしてのヘーゲル。どれも、ヘーゲルを理解する一つの視点とはなる。しかし、哲学の魂を抜き去ったヘーゲル解釈は、あまり役に立ちそうにない。カントの「自由な意志」は、ヘーゲルに引き継がれており、それをカントが制限したところを超えて展開しているのが、ヘーゲルの優れた点ではないかと思う。