カント学者S教授

S教授は、実に誠実なカント学者だと思う。講義内容も面白い。何が面白いかというと、それが完全に教授の信念の表明であるからだ。学問を誠実に探求してきた結果としての信念は、聞いていて心地よい。私のように学生としては、少し素直さを失った年寄りから見ると、うらやましいくらいの一途さだ。ただ、やはりそれが研究室や書斎に閉じこもった者特有の思索だなあと思ってしまう。今度、疑問をぶつけて見よう。その一つは「意思の自由」と「善意思」の関係である。意思の自由をとことん擁護すれば、それは必ずしも「善意思」とはならない筈だ。悪意思もまた、自由な意思の帰結であり得るのではないか。もうひとつ、「善意思」を完全で無条件の善とするのは、「実現されず」「主観の中に純粋にとどまる場合」のみではなかろうか。ある意思を実行するならば、それは必ず結果を伴うことになる。結果のない行為はなく、行為することを目指さない意思はない。結果の如何を考えない意思、それは善であり得るのであろうか。ある意思が善意思か否かを判定する基準が、自分の行為がいかなる結果をもたらすかであるということになると、カントの論理は成り立つのか?
いや、S教授の誠実さは、そんな話の中にはない。まさに、善意思をとことん貫こうとする迫力が感じられる。多分、そこに回答があるのだ。