郷愁としての自由

私は焦る。自分は自由な存在である筈なのに、奴隷のように感じる。何の奴隷か? 過去からの習慣の継続の。そして、段々と、今や急速に、生の終焉が近づいている。「自由」、かつてそれは自分が属していた家族や故郷の粘りつくような視線からの逃走だった。都会、学生運動、登山、ジャズ、恋愛、それらすべてが自由の証のように感じられた。コーヒーの香りと音楽の流れる喫茶店ほど自由を実感する場所はなかった。孤独感は酷かったが、今となっては何という郷愁を感じることか。しかし、今や父母も無く、故郷も無い。喫茶店に自由の香りはなく、山は憧れの場所ではない。学生運動、それは私の場合、自由と反対のものになって終わった。ミッチとの出会い、結婚、子育て、それは充実したものだった。仕事はどうだ? ????
成功と安定した暮らしを得た。その代わりに喪ったもの、それは自由? しかし、そう感じるのは孤独な青年時代を美化してくれる郷愁としての自由に過ぎないのだろうか?