言葉、観念、概念
記憶:それは、人間が何かを思考する時のほとんどすべての材料である。知覚、現象、経験など、時間を無視して、現在のことを言っているが、実は、それはすべて記憶の世界の話なのだ。だから、その知覚を経験するということは、記憶を持つということであり、それは実は、記憶の断片を、言葉やイメージとして持つということである。それらの断片は、人間の頭脳に漂っている。そして、その断片が連結して、何等かの観念を形作るばかりではなく、ねつ造し、創造する。それは、磁力のような、習慣の作用によって、ある必然的な連関を持ち、その結果、ある意味を持つ、しかし、それは複雑系なのだ。だから、浮揚し、ふらふらと漂う、記憶の断片が、何を生み出すかは、なかなかわかるものではない。それは、常に「現在」の要請によって変形されてしまう。
記録:記憶が記録されることで、客観的に、ある固定化された断片(多かれ少なかれ)ができる。それは、何時までも変化せずに、そこにある。そこが単なる記憶とちがうところだ。その固定された要素間の結合は、首尾一貫性やら、文学性やら、何やらの、無数の創造物を生む。
人間が、文字や絵、像など、精神活動の所産を、記録するようになり、それが、共有されるようになったことの巨大な意義は、どんなに強調しても足りない。
哲学の前提
自分が、どう考えても前提的に正しいと思うこと
1過去は決して変えられない
2過去は、常にその時点における過去を前提として存在している
3過去は、現在と未来に影響する。過去の一時点も同様であった。
4従って、過去は累積して存在を形づくっている
5全ては連関して存在している。その要素はそれぞれ過去を持つ
6要素は、相互に影響しあう。影響は、相互に決定的に離れていない限り、回避できない
7.ビッグバンによって世界が生れたとすれば、その影響を逃れることはできない。
8.合理とは、必然的なものであり、現実的なものであるという事でしかなく、それが善であるとか悪であるとかは関係ない
9.組織とか、法律とか、国家とか、制度とか、文化とか、道徳とかの話と、森とか海とか、星とかの話とは別に考えなければならない。いかに、存在論と言えども、それを同列に考えるのは無理がある
10.認識とは、自分と相対する世界すべてに対する自分を語ることであり、それは、無限に遡ることのできる「語る自分」という、語り得ないものを残さざるを得ない
11 神の視点ではなく、自分の視点からとはよく言われることだが、同じことだ。
12.自分の視点も神の視点も、対象とされている当のものを自ら語らせることによって、おのずと出てくるものである
哲学・倫理学者は、皆変なんだが・・・
哲学者、倫理学者は、皆すごく論理的で、その点は素晴らしいのだが、その中心軸となっている主張の核心、あるいは結論となると、皆偏っている。特に、論争的な展開をする人はそうだ。はっきり言って殆ど変だ。だから殆ど役に立たない。だが、その変にこだわっていることが、人間と社会の本質の一面を鋭く抉っていることも確かだ。だから、ヘーゲルの哲学史のように、それらを総合することができれば、かなり優れたものになる。僕の見るところ、なんだかだと言っても、それはヘーゲルしかない。というのは、ヘーゲルは、方法論的に、すべての哲学的見解の一面性を突き、それを否定しつつ、新たな視点から総合するからだ。そして、ヘーゲルの優れた点は、さまざまな主張をよく把握し、それを単に否定していないところだ。色々、こじつけ的なことはあるが、とにかく、そういう方法論を持っているところが、どんな哲学もかなわないところだ。