言葉、観念、概念

記憶:それは、人間が何かを思考する時のほとんどすべての材料である。知覚、現象、経験など、時間を無視して、現在のことを言っているが、実は、それはすべて記憶の世界の話なのだ。だから、その知覚を経験するということは、記憶を持つということであり、それは実は、記憶の断片を、言葉やイメージとして持つということである。それらの断片は、人間の頭脳に漂っている。そして、その断片が連結して、何等かの観念を形作るばかりではなく、ねつ造し、創造する。それは、磁力のような、習慣の作用によって、ある必然的な連関を持ち、その結果、ある意味を持つ、しかし、それは複雑系なのだ。だから、浮揚し、ふらふらと漂う、記憶の断片が、何を生み出すかは、なかなかわかるものではない。それは、常に「現在」の要請によって変形されてしまう。

記録:記憶が記録されることで、客観的に、ある固定化された断片(多かれ少なかれ)ができる。それは、何時までも変化せずに、そこにある。そこが単なる記憶とちがうところだ。その固定された要素間の結合は、首尾一貫性やら、文学性やら、何やらの、無数の創造物を生む。
人間が、文字や絵、像など、精神活動の所産を、記録するようになり、それが、共有されるようになったことの巨大な意義は、どんなに強調しても足りない。

永遠に時間があると思い込むこと

どうも、焦っていたと思う。ドイツ語で読む力が弱すぎる。つまり時間がかかりすぎる上に間違ってしまう。何と言っても、英語との差がありすぎる。だから、「英語でヘーゲル」なんて思ってしまった。しかし、ドイツ語で書かれたものを、ドイツ語で読むことを前提にしない限り、やはり十分な理解には達し得ないだろう。どんなに時間がかかっても、ドイツ語でヘーゲルをやり、それと重ねて英語でも読む以外ない。そのためには、永遠に時間があると思い込む以外ないのだろう。

哲学の前提

自分が、どう考えても前提的に正しいと思うこと
1過去は決して変えられない
2過去は、常にその時点における過去を前提として存在している
3過去は、現在と未来に影響する。過去の一時点も同様であった。
4従って、過去は累積して存在を形づくっている
5全ては連関して存在している。その要素はそれぞれ過去を持つ
6要素は、相互に影響しあう。影響は、相互に決定的に離れていない限り、回避できない 
7.ビッグバンによって世界が生れたとすれば、その影響を逃れることはできない。
8.合理とは、必然的なものであり、現実的なものであるという事でしかなく、それが善であるとか悪であるとかは関係ない
9.組織とか、法律とか、国家とか、制度とか、文化とか、道徳とかの話と、森とか海とか、星とかの話とは別に考えなければならない。いかに、存在論と言えども、それを同列に考えるのは無理がある
10.認識とは、自分と相対する世界すべてに対する自分を語ることであり、それは、無限に遡ることのできる「語る自分」という、語り得ないものを残さざるを得ない
11 神の視点ではなく、自分の視点からとはよく言われることだが、同じことだ。
12.自分の視点も神の視点も、対象とされている当のものを自ら語らせることによって、おのずと出てくるものである

ヘーゲルをひっくり返すこと

ヘーゲルは偉大だ。ヘーゲルと対抗しようとした偉大な哲学者たちをみれば、それは歴然としている。誰しもが、それを乗り越え、ひっくり返そうとし、あるいは徹底的に否定しようとした。曰く、観念論対唯物論、客観主義と主観的観点、ヨーロッパ的な歴史観と非ヨーロッパ的なもの、そして時間。僕は、それを四次元の転倒として考えてみたい。

合格、そして新しい人生へ

慶応義塾大学文学研究科哲学倫理専攻(修士課程)に、予想通り合格した。色んな人からお祝いの言葉をもらい、「凄い」といわれたが、冷静に考えると、65歳からドイツ語をはじめて68歳でここまできたことが評価されている。つまり年齢のハンデをもらっているのだと思うと寂しいが、人生の経験を積んできたこと、それが何かしら私の学問に意味を加えてくれるかも知れないという期待だと思えばいい。逆に、言えばそれがまったく生きてこないとすると、一体自分は何のために生きてきたのかということにもなる。
心しておこう。

大学院生となりそう

慶大文学部大学院修士課程の試験を受けたが、第一次試験が合格、今日は面接だったが、面映いほど褒められてしまった。どうも合格してしまいそうだ。嬉しい限りだが、新しい人生の道に入る門の前で、大きな緊張を感じる。まあ、明日9時が本ちゃんの発表だから、未だわからないのではあるが。

哲学・倫理学者は、皆変なんだが・・・

哲学者、倫理学者は、皆すごく論理的で、その点は素晴らしいのだが、その中心軸となっている主張の核心、あるいは結論となると、皆偏っている。特に、論争的な展開をする人はそうだ。はっきり言って殆ど変だ。だから殆ど役に立たない。だが、その変にこだわっていることが、人間と社会の本質の一面を鋭く抉っていることも確かだ。だから、ヘーゲル哲学史のように、それらを総合することができれば、かなり優れたものになる。僕の見るところ、なんだかだと言っても、それはヘーゲルしかない。というのは、ヘーゲルは、方法論的に、すべての哲学的見解の一面性を突き、それを否定しつつ、新たな視点から総合するからだ。そして、ヘーゲルの優れた点は、さまざまな主張をよく把握し、それを単に否定していないところだ。色々、こじつけ的なことはあるが、とにかく、そういう方法論を持っているところが、どんな哲学もかなわないところだ。