郷土意識の陥穽

日本の右翼イデオロギーの中で「自分の国を悪く書くなんて、それでも日本人か」と言うのがある。それは、心底そう思っているからこそ出てくる側面があって、それについて色々考えてみた。
やはり、その根っこには、「郷土意識」があるのではないかと思う。
自分に照らして考えてみると、子供のころから育った郷土の友人たちは、基本的には「何でも許しあう」仲である。もちろん、互いのいさかいはあるが、いわゆる「何々ちゃん」の間柄で、それは信念やら理想やらがどんなに違っていても、その相違を超える「共同体」である。問題は、その共同体の外に居る者に対する排他性で、よそ者は厳しく警戒され、心を許されることがない。さらに、その共同体にいながら同調しない者も嫌われる。もちろん、彼(彼女)が郷土の誇りとなるような、偉業をなす場合には、コロッと変わるのだが。
この郷土意識は、そこに帰属する個人にとってみると、煩わしいと感じる面はあるのだが、「どんな事があっても、許し、受け入れてくれる」という面、どこかで心を落ち着かせるところがあり、捨て切れない。
それは、排他性と結びつかなければ、公然と「良いもの」と言えるかも知れない。人間は、弱い者、悪なところがあるものだが、本質的には無条件に許し許されるべきものであって欲しいというのが、民衆の切なる願いだからだ。
しかし、それが、「同調しない者、よそ者は、許されない」となると大変だ。「非共同体者」は、存在自体を否定される者「村八分」になる。それは、非国民という考え方を生み出した基礎であり、「何でも許しあう」共同体の帰属意識と裏腹な関係にある。
多分、それは、家族としての無条件的結束に根源を持ち、その延長にあるものなのだろう。
「共同体意識というより、郷土意識」に似たものは、会社、同窓、その他無数にあり、弱いつながりもあれば、強いつながりもある。「戦友」などとなれば、誰も入ることができないほど強いつながりかも知れない。
それが、最終的にはナショナリズム、そして戦争の原因につながることになると、家族意識は、人間を滅ぼす危険な側面を持つことになる。
キリストが、「家族を捨てて、ついてこい」と言ったように、普遍宗教は、それを超えさせる面を持つ、さらに、ヨーロッパ的な自由主体の発想もそうなのだが、それらは、「キリスト教徒以外の信仰、無信仰者への迫害」「非理性的とみなされる者の排除」という、「より大きな観念的共同体」を生み出した。

その解決はどこにあるか?
アマルティア・センの言ったように、やはりより普遍的な「理性」しかないと思うのだが、それは「抽象的」な「基礎の無い」観念的なものではなく、結局「人類」いや「地球」という共同体への帰属意識をベースにする以外無いのか。
関連する論点は、以上でも、未だ尽きていない。
それは、「利害」だ。さまざまな共同体意識は、美化される傾向があるが、裏にそれを利用して個人の利益を追究する動機がある。
いや、本当に根底にあるのは、自己保存やエゴイズムにあるのかも知れない。例えば、ミャンマー北朝鮮の軍部独裁は、実は軍部の利権を何としても防衛しようという現実的な欲求があり、それは強烈な力となって、軍部独裁を維持するものとなっていると思う。
それを、打ち破ることができるのか? あるいは、それ自体の矛盾によって、結局はより良い社会に向かっていくのか? あるいは、破壊と戦争により、人類の滅亡に向かっていくのか? それは、何とも分からない。
自分は、「希望」を持ちたい。「希望」は、人類が持つ最終兵器であると信じたい。


以上、心覚えのために。