自由、無限、真理

ヨーロッパの哲学者は、「無限」という言葉が好きだ。自由な精神は、永遠の真理を求めて、無限大の世界を飛翔する。しかし、自由なのは「精神」だけだという点が重要だ。実際には、肉体は有限に縛られ、人間は有限の世界でもがいている。「自由な精神」とは、「何でも思い込むことができる」とどう違うのだろうか? 心の中だけなら、すべての制約を取り払って、理想を追求することができる。「思うだけなら何でもできる」だ。だが、それはそんなに重要なことななのか?それは、単なる空想を賛美することではないのか? そういう問いは当然くる。 
しかしだ、精神の中であっても、自由が「抽象的なもの」にとどまらず、ただの言葉や「自由の気分」のレベルを超えようとすれば、大変なことではある。精神状況を、現実から切り離して、言葉遊びをすることも意味がないとは言えない。そもそも哲学とは、現存するところを、観念の力によって、把握し、そこに今まであった現存と異なる像、異なる世界(精神の描いた世界)を現出させることだ。
しかし、現実は容赦なく人間を制約している。実は、それは肉体だけではなく、精神状況を支配するものだ。
だから、その精神状況を作り変えることは、現実を変化させることになる。「思う」ことが、何かを変えるかも知れない。
仮に、その空想が妙に人間を捉えて、共感を広げることになれば、それは何事かを起こしてしまうことになる。革命ってそんなものかも知れないと思うのも無理は無い。
しかし、中々そうはいかないところがミソだ。
空想を、空想と思ってしまえば、もうそれは力を失うことになる。空想と思えないような空想のみが、力を持つ。だから、信仰には力がある。