ドイツ的なもの

トーマスマンの「ドイツ、ドイツ国民」は、ドイツ的なものを見事に表現している。特に、ヒトラーの出現に辿りついたドイツ的なものへの言及は見事だ。ヒトラーのドイツは、最良のものと最悪のものが闘って、後者が支配したが故に出現したのではなく、ドイツの最良の要素が、何らかの理由で悪に転じたのだという。トマスマンだけではなく、ドイツ的なものには「悪魔に魂を譲り渡す」ところがあることは、ゲーテファウストに表現されている。
ドイツの知的エリートは、その類ない知性と誠実性にも関らず、いやそれ故に悪魔に魂を売ることになるのか。
ヘーゲルが、ドイツ以外の国が、個別的な学問と知性だけを追求して、全体的知としての哲学を失っていることを指摘し、ドイツ(当時のプロシャ)は、知性の上にたつ王国であると宣言したことを思い出す。
その観念性は、無力な抽象的観念性ではなく、魂から発し、生の噴出としての観念性だ。
それは、世界に取って、危険な魅力に満ちている。ゲーテが、ドイツ国民を世界に分散させて、世界に貢献すべきとした、素晴らしい精神である。それは、狭量なナショナリズムに結びつけば、ヒトラードイツとなり、自らを犠牲にして世界に分散すれば、世界の向上となるのかも知れない。