原子力発電と論理の問題

今日、NHKテレビの「日本の明日のエネルギー問題」の討論を見ていて、実に複雑な気持ちになった。
簡単に言えば、原発是か非かということになるのだが、現状、未来、未来へのプロセス、の三つの区別と、本質的なことと枝葉に属することの区別が、いい加減な議論が多い。
まず、福島原発の事故が、偶然的、特殊的なことで、他には殆ど絶対起きないのかどうか? という問題は、決定的なことだ。エネルギーが足りないとか、コスト競争力に勝てないとか、いろいろ言っているが、次のケースではどうな?
予め、行っておきたいことであるが、原子力発電が危険であっても、それを容認するロジックはもちろんある。

①販売している製品に、1年間で1万分の1の確率で爆発するリスクがあり、その爆発によって、10万人の人が致命的な病気になり、しかも、半径30キロ以内の土地が消滅し、場合により首都機能を含む政治と経済の中枢が麻痺する
②その製品を販売することにより、多くの人が豊かな生活をしており、もしその製品が売れなくなったら、多くの人が失業する。

このケースでは、その会社の品質管理部、コンプライアンス部はどうすべきだろうか? もし、その部が営業本部の下にあったとしたらどうするのか?

問われるまでもあるまい。品質管理部、コンプライアンス部は、独立の立場から、無条件にその製品の販売をストップし、かつ全品を回収するというのが常識だ。
そして、営業本部の下に品質管理部があって、営業に差しさわりのある情報は部外秘とするような体制は、「内部統制システムの重要な欠陥」があるとして、その状況を放置する経営者は正当注意義務違反ということになる。
それは、その会社が成り立つかどうかという問題以前の要請である。
窒素、雪印リンナイ汚染米などは、すべてその対応をミスして重大な危機を招いた。会社が残ればいいほうだった。

まして、この製品に依存しないことにより、暫く苦しい生活が続くにせよ、努力により、立ち直ることはでき、将来はより確実な収益基盤ができる可能性があるとすればどうだ。
しかも、暫くつなぎの製品(あまり儲からないが)があり、10年もたてば、よほど良くなるとしたらどうだ。
普通であれば、この場合、原発維持論は、「原発は安全であり、事故は大したことではない」という前提に立たない限りあり得ない。
福島の事故は、その前提を覆すものだったと言える。
だから、原発全否定という主張は、極めて有力な論拠がある。
しかし、結論を出す前に、原発容認というロジックについても、検討する必要はあるだろう。
しかし、容認のロジックについて