秋がきて

 この夏は、ボストン北東部のウッズホールに行って、息子一家と楽しい夏休みを過ごした。日本に帰って、その酷暑にまいった。それに、溜まった仕事もしなければならなかったので、カント君にもご無沙汰してしまった。この間、ようやく微かな秋風が感じられるようになり、世の中全体が気を取り直したかのような動きが感じられる。
新米の収穫が始まっている。僕も、勉強を再開する。
 カント、ヘーゲルが非常に大きな二つの傾向、個人の自由意志を根底にする思考と、共同体の生成展開を根底にする思考を、ともにとことん突き詰めて考えたことは明らかだ。現代の政治・社会哲学者を深く学ぶためにも、二人を知ることは欠かせない。どんなに時間がかかっても、二人を理解しよう。
 もう一つ、大変なこと、それは日本語だ。ドイツ語や英語で分った気持ちになっても、それが日本人に伝えられなければ、つまり日本語で伝えられなければ、その精神を革新することはできない。また、日本語で伝えられるようになれば、日本人は世界に対しても立派に影響を与えることができるようになるだろう。 こいつは難しい。
 でも、僕は、西洋人になるために勉強しているわけじゃあない。
 それに、人間は西洋人でも日本人でも、あるものを基準にすれば大した差はないと思う。
 その基準とは、自然そのものだ。自然科学が凄いわけじゃあない。自然が凄いのだ。人間の知性が凄いわけじゃあない。それを生み出した自然が凄いのだ。
 土台、人間は、バクテリアほどの生命でさえ理解できていない。何故って、それを創ることができないばかりか、その神秘的に精妙な生命現象を解き明かすことさえできないでいる。
 しかし、人間が「理解可能性」を持っているのは明らかだ。何故なら、人間もまた自然物だからだ。レビストロースが未開社会の「構造」を見事に解き明かしたというが、ほんの断片だ。人間社会という複雑怪奇な現象は、あらゆる生命体現象を学ぶことにより、その比喩として考察するだけでも、汲み尽し得ない豊かな認識を人間に与えると思う。人間社会の研究が社会学で、動物社会の研究が自然科学だなんておかしな話だ。