僕とカント君は同じ地平に立つ

カント君は、実は物凄い人だということが、うすうす分かってきた。
学者として、対しなければならない人だ。「あたりまえじゃないか」という声が聞こえるが無視する。
カントは、哲学の難解さを批判する人たちに対し、哲学特有の難解さを避けることはできないのだ。いやしくも学問として哲学を学ぶ者は、それを避けるような事を考えるべきではないと言っている。
そのとおりだと思った。
しかし、哲学とは、本来学ぶことができるものではなく、「哲学することを学ぶ」ことができるだけ、とは有名なカントの言葉だ。
ということは、自分自身の奥深いところで、言葉の一つ一つにいたるまで、直感的に納得できるように、哲学者の書と会話することだと思う。
例えば、カントがその書に込めたもの、そこにおいて直感したものを共有するということ、あるいは少なくとも「共有」しているように心の底から感じること、それが哲学者との会話の成立の前提となる。
数学が、専門的訓練を必要とするように、哲学も専門的訓練を要する。
数学は、もしそれを理解すれば、誰でもそれを「真理」として共有できるものだ。
同じように、純粋哲学もまた、それが真の形而上学である限り、誰でも、それを真理として共有できる筈だ。
だからこそ、カントは「真の形而上学はまだ書かれたことがない」と言ったのだ。
カント哲学は、誰もが真理と感じることのできるものではないかもしれない。しかし、カントの問題意識は、人類普遍のものと思うし、そういう意味では紛れも無い真理を含んでいる。僕がそう感じることは、僕がカントと会話出来ると言うことだ。
それこそ、僕とカントを同じ地平にたたせるものなのだ。
僕がカントを、カント君と呼ぶのは、確かに不遜だが、そういう意味においてである。