カント君が好きになった話

カント君は、実にいいことを言う。「善への意志」は、宝石のように、それを持っているだけで高い価値があり、それが実現されるかどうか? 効用があるかどうかに関わりが無いという話だ。
僕は僕なりに、次のような例を考えて、すっきりした。

東北巨大地震の被害を見て、Aは「ここで1億円を寄付して、うまく宣伝すれば、自分のビジネスに有利で、将来議員にもなれるかも」と思って、1億円寄付した。それは、結果として多くの被災者の役にたった。
Bは、貧しく障害もある身だが、どうしても被災者を励ましたくて、寝ずに折り紙を折り、メッセージを添えて送ろうとしたが、それを送る前に亡くなってしまい、しかもその折り紙とメッセージを書いたペーパーを、看護師さんが誤って捨ててしまって届かなかった。

カント君は、効用ゼロのBの善意の方が、効用1億円のAの行為よりも、隔絶して高い価値があるというわけだ。
実は、この考えが正しい事は、カント君の嫌いな「効用」の長期的観察からも証明できる。
Aのあり方が世の中に蔓延した場合、善意はすたり、社会はとても荒んだものになって、結局社会の劣化をもたらすだろう。Bの善意は、社会全体に広がって、必ず良い社会を生み出すだろう。

それに何と言ったって、僕は、このカント君の考え方が好きだ。善への意志は、無条件にいいものだし、リラックスする。効用を常に考える人生なんて草臥れるわい。