カント君 その2 公共の世界

カントの言っていることで、「学者として(奇妙な翻訳だが)発言せよ」というのがある。この場合の「学者としての見地」というのは、いかなる権威にも依存せず、ただ「理性のみによって」という意味で、いわゆる「学者さんの見地」のことではない。
純粋に独立し、他者や権威に依存しない者同士が、ただ理性に従って議論する場、それが「学者としての見地からの議論の場」である。それが拡大すれば、世界市民的見地が成立すると期待される。
「そんな場、できるかいな?」と思われるかも知れない。
カント君は、現実に生きている人間は、さまざまな欲望やしがらみ、職務上の立場に縛られていることを知っている。そして、そこで成立する普通の議論も知っている。
しかし人間は、同時に「理性のみが支配する世界」を想定し、そうした場での議論として、議論を行なうことができるし、すべきだと言うのが、カント君の主張だ。
数学者や自然科学者の世界ではそれができている。学者の面子や欲望も渦巻く世界だが、真理に向かって絶えず前進する議論の場があるのは事実だ。
公共の場とは、「世界、社会はどうあるべきか?」を理性の命じるところによってのみ語り合う場である。
ハーバード白熱教室」のサンデルの授業のように、現にそれは実験的に行なわれているではないか。
そうした議論の場、公共の場ができることを願う。