カント

これからカントを勉強する。カントほど日本の哲学を学ぶものに学ばれ、語られてきた哲学者はいないだろう。今やカントは、苔むした灯篭のように、堅固だが、ただ立っているだけの存在であるかのように扱われている。
この上、私のような年寄がカントを学ぼうなんて、無駄の上塗りのように思われるかも知れない。
しかし、僕は思う。超越的世界(経験的事実を超えた世界)を恋い焦がれつつ、それが夢幻に過ぎないことを説き続けたカントは、予想外に我々現代人の心情に近いではないかと。
僕は、人間が超越を志向することは、人間の本性であること、それは、現実の生活の中で日々行われていることであると、言いたい。
未来を考えること自体そうではないか?
未来は、過去からの類推を含む想像の産物なのだから、決して経験的事実ではない。そもそも次の瞬間には、本人が死んでいる可能性だって否定できない。また、経験的には100歳を超えてなお人間としての活力を保つ者は極稀で、不死の者は存在しないし、本人は自分の死後の現実世界を知ることはできない。つまり、短期的にも、長期的にも、未来はあるか無いか分からないものなのだ。
それなのに、人は未来は必ずあると信じて、将来のことを考える。
また、小説は、想像の世界であるのに、その登場人物は、生きた現実のように、必然の制約の中にいて、リアルであり、かつ、思いがけぬ行動をするので、それを創作した作家ですら、コントロールできないかのように感じる。
仮想的世界、叡智界、空想の世界は、人間にとって、必要であり、人はそれが「あるかのように」生きる以外にない。また、それは幻想として、まったくでたらめのように見えて、ある法則性や根源的な制約の下にある。無意識界に法則性を発見した心理学者は、古代の預言者やシャーマンと大差ない。
カントは、実は、その意味と限界をぎりぎり探究しないではいられなかったのではないか?
カントは、我々を含む人類共通の本性を解明しようとしたのだが、それを自分を超越的な立場において、神の視点から行ったのではなく、自分自身の内部の葛藤が、人類(あるいはカントのいう理性的存在者)において普遍的に存在する葛藤であると仮定し、それを証明すべく闘ったのだ。だからこそ、カントは後の人々に強く、長く、深く影響力を持ったのだと思う。