時間と記憶 サイエンスと哲学をつなぐもの

哲学者は「時間」というものを本当に深刻に取り扱ってきた。
デカルト、カント、ベルグソン、ハイデッカーなどの手による、世界的に有名な哲学論文がある。その内容は、言葉で表現し難いものを、表現しているかのように難解だ。それは常にサイエンスと哲学にまたがるテーマだった。ニュートン物理学は、時間空間概念において、カントに重要な示唆を与えた。アインシュタイン、ボーアなども時間空間概念に革命をもたらした。哲学は、カントのような明確な概念構成ができたかどうか疑問だが、少なくとも大きなインパクトを与えられたことは間違い無い。

現代の脳科学は、やがてそれらに匹敵する影響を哲学に与えるかも知れない。
例えば、自分が過去、現在、そして未来と、同じ自分であり続けていることをどう証明するか? というアイデンテティ問題がある。真面目に考えていくと、次第に気分が悪くなってくる。何故なら、その考える素材が自分自身の意識であり、それを無限に疑うことは、自分の意識に眩暈を生じさせる。自己言及的なぐるぐる回りをもたらすからだ。ふと気がつくと、何か不毛な議論のような気がしてくる。論理だけで切るのは無理があると思うが、概念と論理のみを武器とする哲学は、それをやめられない。哲学者は、一度自分の世界から、飛び出てみたらいいのかも知れない。

サイエンスの観点から見ると、ぐるぐる回りを断つその鍵となるのは、多分「記憶」だろう。
意識が階層をなして、変化しつつ同一性を保っているのも、過去から現在へ営々と積み重なっている記憶のおかげだと思われる。
記憶が短期間で消滅していくことは、アイデンテティの安定に大きなダメージとなって、恐怖感や自己喪失感をもたらす。当然、それは医学的には勿論だが、文学的にも重要なテーマになっている。
良く考えると、神経医学は、昔から多くの哲学者に影響を与えている。その中には、自身哲学者である者もいる。フロイトユング、メルロポンティ、フロム、枚挙に暇が無い。

記憶のメカニズムの解明は、哲学にも大きな影響を与えるに違いない。