受験生のカンニング再考

京大などを受験し、携帯電話を使ってカンニングをした事件について、京大が警察に被害届けを出し、逮捕させた事に対して猛烈な批判が巻き起こっている。大学側は自らの力で不正の事実を把握でき、受験生を教育的観点から処理ができた筈で、警察に頼ったことで教育者としての使命を放棄したという批判である。また、同じ観点から、マスコミも「大騒ぎしすぎである」と一部から非難されている。茂木健一郎などは「京大は死んだ」と激しい。
こうした議論は「大学の自治は未だ生きていたのか?」と言う思いを起こさせる。「大学を巡る不正に対しては、自らの手で処理する」これは、確かに大学の自治の基本に関る原則だ。
もう20年以上前に、一連の大学紛争が実りも無く終結し、大学の荒廃が進んだ。学生は幼稚化して大学自治の担い手の座から滑り落ち、大学自体の変質もあいまって、かつての誇り高い大学人による「大学の自治」も、忘れられてしまったように思われた。実際、そうだからこそ、京都大学は、かつての誇り高い自治の伝統を一顧だにせず、安易に警察に委ねたのだろう。それを批判するのは容易いが、大学の自治を荒廃させてきた基本的なところを問わなければ、茂木健一郎の批判も大した意味はもたない。本当は、大学はもっともっと駄目になっているのではないのか?