想像力の限界

どうも人間は鳥のように自由に世界を飛びたいと思う動物らしく、そういう歌が沢山ある。世界が観念の産物だとする観念論者に従えば、仮に鳥になることを本当にリアルに夢想する人がいたとすれば、その人は鳥になれたのではないか?
しかし、「鳥になったぞ」という人がいたら、その人は、他人からは精神異常をきたした者ということになるか、さもなければ普通とはまったく別次元に生きている人ということだ。
後者の考えを貫いていくと、個人一人一人は、まったく別世界にいて、相互に共通する世界というものはないことになる。
そこには、コミュニケーションの可能性すらない。
同じ世界に済んでいる者にとって、その時空は、客観的なもので、その世界で個人がかってに想像を逞しくしても、現実は何も変わらない。これが客観主義とう普通の考え方だ。しかし、「相互主観」という逃げ道がある。
全員が共同幻想を持っていて、それが主観的なものであることすら認識できない状態にあり、それに縛られているが故に、世界がそう見えるだけだとすれば、どうだろうか。
この考え方の魅力的なところは、客観的な世界像といえども、人間の主観的想像の産物であるから、もしそういう主観的想像を壊してしまうような、強いインパクトがあれば、現実にある世界は変容するかも知れないという期待をもてるからである。
しかし、それでも例えば「“人は鳥になれない”という共同幻想を壊そう」という発想を聞いたことがない。
つまり、共同幻想なるものも、ある限界内の話で、完全に自由な想像の産物ではない。むしろ、共同幻想を成り立たしめる何らかの現実的根拠があり。共同幻想もまたそれを超えることはできないと考えるのが、自然だ。

そういえば、カールセーガンの「コンタクト」は不思議なSFだった。外部から見ていると何も動いていない宇宙船の中の人たちは宇宙の果てにいったとリアルに確信している。その宇宙船の設計図は、太陽系の外の世界から発せられた電波に乗っておくられてきた。著者が、あの誠実そのものに見える科学者だから、謎めいてくる。一体彼はどういうつもりで、こんな小説を書いたのか? 異次元というものがあって、集団的にそこに移行することがあり得ることを言いたかったのだろうか?