この際、自分を見る自分になってしまおう

自分を語るという事は、自分を分裂させること、自分を見る自分を創りだすことだ。
そこで見た自分が嫌なら、それを見ている嫌いになっている自分は、嫌いな自分じゃない。
それなら、自分を見る自分になりきってしまえばいいじゃないか?
それが無だというなら、無になってしまえばいい。空は、色として現象している。その本質は、やはり無だ。ソッチよ、それを悟れと、無は自分に諭している。宇宙の成り立ちに関する最新の科学は、無と有の中間を限りなく微妙なものとし、その本質は無ではないかと思わせるところがある。しかし、その無は、要するに人間の思考の限界を示すものに過ぎないのではないか?
見えているかのように無を思索するのが、哲学するということなのだろうか? さらに言えば、「無」を「言葉」で示そうという途方も無いことが何故できるというのか? それは、むしろ、「悟り」のような、言葉を超えたところにあるのではないか?