必然について

「必然」について、思いついたことがあるので、ここに書き留めておく。
まず、過去に起きたことは、二つの決定的な特徴がある。
まず、時間を前に戻すことができない以上、起きてしまったことは「変更できない」ものであること、次に、それは「記憶ないし記録」としてのみ存在することである。
過去に起こったことが変更できないので、「過去に起こったことは、すべて必然だった」という印象も、生まれる。それは、過去に生じたことが「なぜなのか」を「説明」しようとすれば、何等かの「因果関係」による以外ないからである。しかし、他方では「違う事態もあり得た」ということもできる。それは、過去は「記憶」にしかないが、その理由を「偶然」と考えることもできるからである。
しかし、何時の時点でも「過去」は変更できないことだけは間違いない。我々は、常に「変更できない」過去の累積物としての現実を前提に、今と未来を生きなければならない。真っ白いキャンバスに人生や世界の未来図を画くことはできると空想はできるが、実際にはすでに描かれた絵、あるいは創りかけの彫刻の上に、上塗りし、付け加えることしかできない。そこから、「過去も未来も、必然性の奴隷である」という考えが生まれる。
しかし、例えば、作りかけの彫像が、バランスを欠いており、重力の力によって、何時か崩壊するものであるとすれば、重力を計算にいれた、合理的なバランスにたった彫像へと作り変えることになる。つまり、不合理なものは、合理的なものに変更されていくのである。
人間は、合理的であろうとする意思を捨てることができず、不合理なものを変更して、合理的なものに作り変えようとする存在なのだ。しかし、それは、過去の累積物としての現実の中に、不合理と合理の混在する要素がある限りにおいてである。
ヘーゲルは、かなり正しい。