論理に対する倫理

僕は時々「頭にくる」状態になるが、その一つが、「不誠実な論理」に対する怒りに起因するものだ。
先日、原発推進脱原発で、それぞれの代表的論客が議論しているのをラジオで聞いていた時のことだが、脱原発派の者が、「万一の原発の事故のコストを測るというなら、民間の保険会社がいくらなら引き受けるか聞いてみればいい」「それは、引き受けられないほど高い筈だ」と言ったところ、原発推進派の論客(原子力安全委員会の専門家だったと思う)が、「無知もはなはだしい」という言い方で「現に保険はかけられていますよ。引き受け手はいるのです」と言う。僕も「へえーそうなのかな、でも変だなあ」と思って、後で調べてみると、保険金は「最大で1200億円」ほどだという。つまり、上限を決めてある話なのだ。実にふざけた話だ。仮に事故確率10%だって、保険料の最大は120億円しかないということになる。今回の事故で生じた被害は、直接的被害だけで数兆円、除染のためだけでも何十兆円になり、回復の見通しすらたたない海洋汚染など数十年にわたるすべての被害を補償しようとすれば、想像もできない。しかも、今回は幸運にも回避されたが、原子力安全委員会によるシミュレーションでの「最悪の事態」では、首都圏を含む半径200キロが避難地域になるところだった。そうなった場合には、それこそ想像を超える被害で、日本と言う国家自体が破綻するところだった。保険というものは、非常に確率が低くても、もし事故が起きた場合には、保険会社が耐えられないほど巨額になる性質のものは、保険商品として成り立たないのが常識だ。それを最初から上限を許容範囲内におくというのでは、「事故のコストを測るための保険料算定の可能性」の議論にならないのは当たり前だ。こういう論理は、実に不誠実で、許しがたい不道徳だと言っていい。