公正であることー陸山会事件判決に思う

小沢一郎の秘書、石川、大久保、池田の三人が、東京地裁から有罪判決(政治資金規正法違反)を受けた。
小沢一郎の政治スタイル、その秘書たちとの関係、そこから臭ってくる小沢一郎の体質、これらにはどうしても嫌悪感を持ってしまう。と言うより、もし私が政治家だったら、生涯闘わなければならない政敵となると思う。
だがしかし、この判決は危険な臭いがする。
以下に、おかしい点をあげるが、まず、政治家もマスコミも、「政治家としてけしからん」と言う事と、「刑事犯として有罪」と言う事は、明確に区別すべきだ。
むしろ、裁判は、世論の上で嫌われている者にこそ、公正であるべきで、世論に乗って不公正な裁判をするなんてとんでもない話だ。
この判決のあり方、すなわち証拠もなく裁判官の推定で判決を下すというあり方が、万一日本の裁判の主流になっていくとしたら、まさに暗黒だ。
しかも、それが、万一その裁判官の心中では「政治家として許せない」という気持ちがあり、それが判決に影響したとすれば、裁判制度の自殺行為である。
一人の悪質な政治家を葬ることは、まさに世論と政治的な戦いで行われるべきであり、それを検察や裁判官に委ねるという発想は、民主主義以前だ。

判決に戻れば、水谷建設献金問題をはじめ、殆ど証拠らしい証拠もあげられなかったにも関わらず、「法廷で、収支報告書の虚偽記載の合理的理由がなされなかった」と言う理由で、何かを隠すという動機があったとし、その動機が立証されていないにも関わらず、それを根拠に有罪としたのは、何と言ってもおかしい。これでは、「完全に無罪であること」を被告側が立証しない限り有罪ということになりかねない。判決は、「すべての行為が合理的に説明できない限り、何か邪悪な動機がある」と推認するという驚くべき論理にたっている。さらに言えば、4億円の記載がなかったという事だが、正確には「4億円の記載が、期をずれてなされた」という事であるのに、「記載を隠すためだった」という言い方も変だ。
マスコミに騒がれるのが嫌なタイミングだったというのは事実だろうし、それは確かに収支報告書の虚偽記載にあたる可能性があることは否定できないが、石川が、不動産取得のタイミングを売買完了ではなく、登記時点にしても許されると思っていた可能性もあり、そうしたことは、不動産取引をする者の間では、不思議なことではない。つまり、それ自体は、形式犯に過ぎない。
そもそも、虚偽記載という時の法律用語としての「虚偽」は、会計監査における「虚偽」と同様、ルールへの誤解や知識の不足によるものにも使用される言葉で、「真実ではない」と言う意味での「虚偽」である。「意図的に、隠す目的で」行われるものは、むしろ「不正による虚偽」と言うべきで、それを、「うその」と言うからますますおかしくなる。その場合には、不正こそ立証すべきことなので、今回のケースでは、それが」「水谷建設の裏献金、それによる不正な公共事業への影響力の行使」である。
ところが、そのポイントは、まったく起訴対象にはなっていない。
実に奇妙な判決だ。法曹にたずさわる者は、是非、法の専門家として、この判決を批評して欲しい。