自由の本質

竹田青嗣の「人間的自由の条件」を読んでヒントをもらって、考えたことを、記す。
カントは、人間の自由あるいは自律というものを、叡智界から発するものとしていると思う。経験的世界は、因果律の支配する必然の王国であって、その世界にだけ存在する人間は、欲望や恐怖など、傾向性とカントの呼ぶ情念に支配されているからだ。しかし、それは竹田の言うように、超越的世界、つまり、いかなる原因も無い、あるいは無からの、純粋な自発性を必要とする。そのような、意志は、神秘主義に導かれざるを得ないだろう。
これに対し、ヘーゲルは、人間は、自分が相対する人間(他人)を自律的な存在とみなすことによって、自由であるという。
素晴らしい。
確かに、人間世界において、他者が自由な存在ではなく、必然に支配されている、ロボットのような存在であるとみなせば、自分ができることは、必然に従って行動することしか選択の余地はなく、それは自分自身が自由ではないということになる。人間は、関係的存在なのだから。
自分を孤立的に、抽象的に捉えれば、出口のない迷路に入るが、自分を他との関係においてとらえ、他者を非・必然的なもの、読めないもの、ととらえれば、それに対応する自分は、自由しかない、いやすべてを自己責任とする、決意、覚悟を持って、まさに自由に行動する以外ないのだ。
しかし、それ以上に、僕は、他者が人間ではなくても、自然でも、あるいは創造の産物であっても、自分にとって偶然的存在であるという側面があるからこそ、それに対応する自分は自由なんだと思う。
そう考えれば、奇跡は、まさに「あり得ないこと」の実現であるから、それを見る者は、必然が支配するように見える世界に、自由なものを発見することである。
言ってみれば、未知なもの、今まであり得ないと思ったこと、できないと思ったことが実現すること、つまり「奇跡」こそ自由の証明である。
他方、ヘーゲルは「自由とは、必然性の洞察である」と言った。
例えば、重力の法則という必然性を洞察し、それに沿って行動をすれば、自由だが、自然法則に反することは実現されないから、それに逆らう行動は自由ではない。必然性を洞察することこそ自由だというのは分かる。
しかし、それが実現される前の段階では、必然かどうか分からない未知のものであり、人間は、冒険心を持って、自分が洞察したと信じるところに沿って行動することになる。それは、合っていれば自由の実現である。他方、それが誤っていたとしても、それは自由な行為である。

それは理性と言う奇跡を信じて行動することであり、奇跡は結果として実現するものであるから、自由でありかつ必然だったのだ。