原発で分かる人間のリスク感覚

これは、自分自身の反省を込めて言うのだが、人間のリスク感覚は、自分自信に身近に起き、直接実感できる範囲を超えると、急速に減衰するということだ。
原発へのリスク感覚はまさにそのことを立証している。かのヒロシマナガサキでさえ、現実を体験したもの、惨状を目の当たりに見た者と単に新聞記事や評論で知った者、・・・で、全然違うのと一緒だ。
実感の無い人々は、「ヒロシマナガサキは、アメリ将兵100万人の命を救い、日本を解放して、戦後日本の自由と民主主義の道を切り拓いた」などと、言うキャンペーンがなされた時、見事に「その犠牲は受け容れるべきものだった」という考えに染まってしまう。

福島の事故で危機感を感じている者も、ベトナム、トルコへの原発輸出の話になると、あまり実感が湧かないようだ。
想像力の問題なのだろうか。

しかし、今でさえ、福島原発周辺の数十キロ以内は、正常な居住人口が急減し、回復しそうにない。海や水は汚れ、数千本に及ぶ使用済みや溶融した核燃料が放置されている。
仮に、第二の福島原発事故が起きれば、日本は確実に潰れる。恐怖が世界を覆い、日本を訪れる者も、日本からモノを買う者もいなくなるだろう。日本人といえども、日本を脱出し、未来を見失った若者は、刹那的な行動に走る。経済は崩壊し、日本国民の精神状況は想像もつかない事態になるだろう。
それは、許容できない事態である。
そんなことは絶対に起きないと言う人は、そうしたリスクを引き受けてくれる保険会社があるかどうか調べてみればいい。

原発推進論者の論拠は、ただ「現に原発に依存したエネルギー状況があり、それで世界の人々は暮らしている」という現実だけだ。さらに言えば、「世界は破滅しない」と言う根拠の無い信仰だけだ。

私のようにキューバ危機の時代を経験した者にとって、熱核戦争は現実的リスクだった。 原発の大規模な事故のリスクだって、あまり変わらない。それどころか、「人類って奴は地球を滅ぼしかねないやばい奴」なのだ。