死と希望

古来、人は不死にあこがれてきたが、その一方で「早く死にたい」とか、「楽になりたい」という希望を口にする者も多い。また「人は死すべきもの」であることを否定するものはいない。しかし、ある無限とある無限を比較して、どちらの無限が大であるかを比べるように、人はさまざまな死の価値を測ろうともする。また、自分が死んでしまえば、他はどうでもいいかというと、これが決してそうではない。例えば、自分だけの死よりも、子供の死の方が恐ろしいし、さらに一家の死は恐ろしい。また、民族の絶滅、人類の絶滅は、さらにさらに恐ろしい。しかも、それは将来必ずやってくる事態なのだ。そう考えると、遠い未来の話にも関わらず、ぞっとする。しかし、さらにそのレベルを生命体まで拡大すると、少し話が変わってくる。
何年か前に死んだ親友のNは、死ぬ少し前に、僕にこう言った「最近、地球の地下奥深くに、生命体があることが発見されたそうだ。僕は嬉しい。地上だけではなく、宇宙には、必ず生命体があって、僕はその素材の一つになることが分かったから」と心底嬉しそうに言った。
さらに、柳澤桂子氏のように、般若心経の色即是空のように、人の生命は結局宇宙の質料と同じ存在で、すべては宇宙の実体の一部であることを知ることが、死の恐怖から救ってくれるという人もいる。
こうしてみると、人は個体の死を受け入れると同時に、永遠の生命を求め、自分がその一部であることを希求してやまない存在であることが分かる。
だから、死は希望の喪失ではない。逆に、希望を喪失した者は、生の理由を失うから、永遠の死、つまり、ネガティブな無限を求める。それは、ある意味で「永遠」「無限」というものと自分を同一のものとするという意味で、不死への願いかも知れない。