原発問題の提起するもの

原発容認(推進か)? 脱原発か? の対立は、次第にエスカレートせざるを得ない。
原発は、建設・稼動までに膨大な投資を必要とし、それを安全に維持するために膨大なコストを必要とする。従って、相当な規模を維持または拡大しなければならない。 廃炉して処理するまでの長期にわたる支出とリスク管理コストを考えると、次ぎから次へと新規の原発を作らざるを得ない。
それが宿命だと思えば、人類はそういう原発と付き合う覚悟を持って、ひたすら原子力をコントロールする技術開発を進めることになるだろう。
他方、原発のあまりの巨大なリスクを直視すれば、原発を廃止し、数十年かけて後始末をする作業を開始すること、原発に替わるエネルギー、すなわち自然エネルギーを活用する道への転換が、今直ぐ必要になる。
多分、両者は相容れないものなのだ。

文明の発展をすべて悪とし、過去の社会=自然状態に帰る志向は、一部の宗教的社会を除き、殆ど挫折しているが、それは原発推進説が正しいことを意味しない。
文明や科学技術の発展を、楽観的にのみ考える発想も大きな疑問符がついたままだ。
原発問題は、結局近現代文明を、総点検することに繋がらざるを得ないと思う。 

日本人は、ヒロシマナガサキ、フクシマという大惨事によって、近現代の行く末に警鐘を乱打し、人類に今歩んでいる道でいいのかどうかを問いかける存在になった。