カント、幸福感、無常

心の底から感動する瞬間はある。
それは、案外多く、映画や演劇、音楽や絵画、それからちょっとした風景、情景などで、心の中に起こる。
しかし、胸いっぱいに幸福感で満たされる事はそう多くない。
そうした幸福感を度々味あう人もいるだろう。

僕は、そう言う人を祝福するし、また、稀ではあるが、自分にもそういう瞬間があることを嬉しく思う。

しかし、カントは、幸福を追求することを告発する。カントによれば、幸福を追求する者は、幸福を得ることができない。そもそもこの世では幸福は低級な感性的欲求の充足に過ぎないのだ。

「ちょっとちょっと待ってくれよ、暗いなあ」と思う。
僕は、カントは素晴らしいと思うが、この点だけはなじめない。

カントは言う。人間にとって、最高善達成の至福の時は、この世では不可能な目標である。その不可能性を理解した上で、なお「幸福に値する」ことを追求する時、何かしらいいことがある・・・かも知れないし、無いかも知れない、その結果には無関心であるべきだ。恩寵は神から人間に与えられる一方的な決定であり、人間はそれを望んで得られるものではないと。

カント君、これでいいのか?

カント君は、幸福感から幻滅感へと移ろっていく、そうした無常が嫌で嫌でたまらなかった。永遠の幸福は得られないことを知り、そんなものに関心を持たなければ、幻滅はない。幸福に値することをひたすら行なっていると、あの世で恩寵が与えられるかも知れない。こう思ったのかい?
可哀相なカント君。

幸福を断念することと、恩寵を願うことは、それ自身の中で矛盾していないのか?

永遠の世界は無だ。永遠に続く等速度運動と永遠に動かない事は同じことだ。だから、永遠の世界としてのあの世は無い。あの世がなければ、この世とあの世の隙間なんてない。超越世界が無ければ、超越的な隙間も無い。永遠は灰色のつまらない世界だ。

むしろ、移ろい、消えて行くからこそ、幸せは痛切に感じることができるのではないか。
無常は、むしろ幸せの存在を保証するものだ。消えていくもの、すなわち現実は、美しく、だから自然は、緑なす黄金の木だ。