カント君は悩む

カント君は、今とても悩んでいるらしい。
世の中は、自分の行動が何らかの効果があると思えなければ意味がない、だから効果の見込まれないことはやらない、という風潮だ。
極端な話、その確率が8割以上じゃないと何もやらない。無駄なエネルギーは使いたくないというわけだ。
カント君は、「そうじゃあないだろう。やるべきことは、たとえ効用があるかないか分からなくても、やらなきゃなんないだろうが」と思う。
でも、彼らを説得するには、「こうして、こうやれば、必ず成功だ」みたいな展望必要なんだという。
確かに、とってもいいことだからと言っても、成果の見えないことをやり続けるのは辛いのは分る。
それでも、それが自分だけの行為なら、自分の責任で自分が苦労するだけだからいい
他人を巻き込むことになると大変だ。
他人だって、自由な本人の意志でやってる場合には問題ないはずなんだけど、とかく「君が言うから」「だれそれの手前」「上が言うから」「他人の眼があるから」と言う話しが多い。
会社でも、サークルでも、集団になると、ますますそうなる。
純粋な自分の意思というものがぼんやりしてきて、集団としての意思のようなものになる。それでも、集団としての意思あるいは指導者の意思が明確な場合にはいいが、それが曖昧なのが日本の組織だ。
だから良く言われる「影響力のある人は、言動に気をつけるべきだ」と。
そのうち、「意思」というより「空気」に近いものになり、誰も責任のない、「成り行き」になる。

その点、カント君は違う。彼は、効果や他人の眼ばかり気にする連中とは違う。そして、自分も自由だが、他人にも自由を要求する。
集団としての意思の場合だって、空気じゃない。
自由な者の合意による「結合した意思」は、それ自身「本人の意思」ということだ。

僕は思う。自分はつくづく日本人だ。というより、昔はそうじゃなかったんだが、何時の間にか牙を抜かれて、そうなってしまった。
それでも、まだ「お前は、自分の意思を曲げない奴だ」といわれる。とんでもない!
自分は、カント君に学んで、自分の内面に自由を確立したい。
でも、カント君ならぬ、本物のカントさんは障害ケーニヒベルグから出ず、死ぬまで独身だった。皆から慕われたというが、はるか天空の星を仰ぎ、内面の道徳律に耳を傾けた。
とてもそれは無理だ。だから、友人としてのカント君に愚痴をこぼすのが関の山か? でも、そんな友人がいるのは心強い。