善は実在するか?

善は実在するか? というと、そもそも「善」って何? 「実在」って何?ということになる。
倫理上の善を、別のもの、例えば「幸福」に還元することや、あるいは「黄色」のように「直覚」するものという説があるが、私はナンセンスに感じる。「善」は、人間のある行為を評価した結果であって、それはどうしても「評価する者」と「評価する判断基準」が必要なものである。「善意志」という言葉がある。カントによれば、それだけが「善」である。しかし、行為者が、自分の行為を「善」かどうか判断するならば、すでにそれは主観的なものである。彼が、善たらんと意志することは、やはり主観的なものである。また、その行為の結果影響を受ける者も同様である。では行為関係者以外の第三者が判断すれば、それは客観的なものであろうか?
一体、その第三者はどういう人物か? そしてその者は、いかなる基準で評価するのだろうか? とことん「判定資格のある評価者」を求めていけば、それは「神」という概念に達することになる。神のみが評価する。神の視点から見て、何が「善」かということを想像することが必要になるように思われるが、神と人間とは隔絶しており、神の視点を想像することはできない。ただ、神の視点から見て「善」でありたいと願うことができるだけだ。右往左往する人間、それが人間だ。では人間は、善の判断をあきらめることができるだろうか? それができないからこそ、倫理が問題になっているのだ。