逃げない精神

我々が住んでいる世界は、急速に危険な場所になってきたような気がする。「どこかに逃げる場所がある」と思えればまだいいが、今や地球上で安全な場所はあまりない。
仮にあっても、人口の多くが危険に曝される事態になれば、人間は安全そうな場所に殺到し、そこもすぐに不安全な場所になると思う。
考えてみると、戦争や大量殺戮、大災害は、大昔からある。
世界はいつも危険な場所だった。
繁栄を極めた民族や、人々が幸せに暮らしていた地域が、瞬く間もなく、悲惨な状況に追い込まれていった。
時折の間をおいた悲惨に次ぐ悲惨の連続が歴史だといえるほどだ。
人間は、そうした悲惨の行進に終止符を打てないまま、種として繁栄してきた。
そして、なお種として異常なほどの繁栄を極め、遂に地球全体を悲惨な状況に陥れつつある。
そう考えると、私は、どうしても荘子のような世の無常を語る思想家に共感してしまう。
もちろん、フランクルのように、どんなに悲惨な状況下においても人生は生きるに値することを語り続ける人にも感銘はする。
フランクルは基本的に逃げない人である。死の一秒前だって、意味を発見し、我々をニヒリズムから救おうとする人だ。
しかし、逃げる、逃げない、で分ければ、無常観の思想家も、「見続ける」という意味では逃げていない。
老子荘子は、恐ろしく悲惨な時代を生きたが、透徹して人間を見ており、語り口にはユーモアさえある。老荘思想もまた、逃げる姿勢からは生まれそうにない。正直言って、自分は、生来「危険を感じたら逃げたい」と感じてしまう方だ。そんな逃げの精神から輝かしいものは生まれないのは百も承知だ。
それでもいい、せめて五分の魂を持つ一寸の虫のように生きて死にたい。