多田富雄、柳澤桂子

多田富雄柳澤桂子の往復書簡「露の身ながら」。
これこそ、生を教えてくれるものだ。死を意識しなければ、本当の意味で生を実感できることはできない。
重い障害を負った多田富雄の中に、芽生え、成長していったもの、過去から連続した肉体の自覚としての自己ではなく、新しく形成されつつある自己を見る自己である。それは、科学者の言葉で言えば新しい神経回路の形成のようなものなのであろうか。自己が新しい回路で外界と関係することにより形成される意識についての意識であり、自分の内部に新しいリアリティを創造する過程である。自己が保存されつつ、新しい受肉としての精神の形成が、そこにある。
ところで、書簡の相手方の柳澤桂子の、死にたいほど苦しい状況の中で発散される、少女のような明るさは何だろうか?その透明さには驚かされる。彼女にも何か見えているものがあると思う。
両者に共通しているもの、それは破滅しつつある肉体としての自己の内部にいて苦しみ、同時にそれを超えて、そのぼろぼろの肉体を駆使しつつ、絶えず新しく生成される外界との関係を意識し、それを楽しみ、再生を実感している自己の存在である。