ノートに移行する前の覚え

これから、修士論文を第一に考える必要がある。この日記には、引き続き思いつくまま、書散らす事とし、修士論文用には、別にオフラインで、ノートにしていく事とする。
今、思いついている事、一つ。ヘーゲルとカントの親近性。例えばカント「世界市民という観点からみた普遍史の理念」第八命題「自然の隠された計画」”人類の歴史の全体は、自然の隠された計画が実現されるプロセスとみることができる。自然が計画しているのは、内的に完全な国家体制を確率することであり、しかも、この目的のために外的にも完全な国家体制を樹立し、これを人間のすべての素質が完全に展開される唯一の状態とすることである」とし、「この命題は、第七命題から導く事ができる」としている。第七命題とは、国際連合、永遠平和、そして自然に目的があるのか、ないのか、・・・などなど、人類が避けて通る事ができず、また、それに失敗するならば「輝ける悲惨」が続くことになる・・・という命題である。これは、命題なのか、課題なのか、願望なのか、必然なのか。
もう一つ、トーマスマンが、「ドイツとドイツ人」で述べていることは、注目に値する。ヘーゲルを理解する上で、ヘーゲルという精神を形成する基盤となった「ドイツ的なもの」を、ダナチス崩壊と第二次大戦後、米国市民となったばかりのトーマスマンが、ドイツ精神について、自己批判的に語ったこの講演ほど、深いものは少ないのではないか。そして、ヘーゲルをドイツ的なものとの関係で理解することは、ヘーゲルの真に世界的な意義を逆に照明するものではないかと思うのである。もちろん、例えば「ドイツの歴史」のエッセンスを知る事は、トーマスマンを理解する上でも必要なことである。