言論の闘い

「政治哲学」といわれる領域の学問は、日本では大変遅れた領域だと思う。丸山真男などの「政治思想」研究はあるし、マルクスやマックスウエーバの研究もあるが、現実の政治に対して、市民一人一人のレベルの主体的な議論を呼び起こしたり、問いかけたりするものではなかった。世界には、非常に多数の論客がいて、常に論争している。そこでは、言論の勝利が、国際的な世論を大きく変化させる可能性があるものとして語られている。民主主義や理性の歴史を感じざるを得ない。
マルクスは、唯物史観の観点から、無数の哲学者、社会学者、実践的運動家を「空想的」「観念論的」と呼んで馬鹿にしたが、変革を目指す者は、常に「観念の力」によって闘ったのだ。
確かに言論人は、権力や銃口の前に、さらに「無知な大衆」の前に、無力をかみ締めたこともあるだろう。ドンキホーテのようなこともあったろう。しかし、社会主義者をふくめ、ヨーロッパ知識人たちは、言論の闘いを通じて、社会の変革に貢献してきたのだ。彼らは、それを通じて、自分や他者の内部にある偏見を摘出し、不断に自己改革を進めてきた。
日本には、そういう歴史があまりに浅い。悪いことに、知識人が大きな役割を果たす可能性が生れた時期には、マルクス主義、そしてソ連、中国社会主義イデオロギーが、知的世界のかなりの部分を制圧してしまった。そうでなくても欧米崇拝が知識人の頭を支配した。丸山のいう「知的共同体」が成立しなかったのだ。そうした共同体の無いところ、いわば「言葉が通じない」ところでは、議論も深まる筈が無い。言論の闘いに情熱を燃やす土壌が無かったのだから。
そうした土壌自体を変革しようとした福沢諭吉は、なんと偉かったことだろう。
今こそ、福沢の遺志を継ぐべき時だ。
言論の闘いは、言論の場が必要だが、かつて新聞がその役割を果たした。
今やインターネットは、広くその場を提供している。「ペンは剣より強し」を信じて、知識人は頑張らなければならない。それは、社会のためでもあるが、知識人本人が自分の頭脳と言葉を鍛え、「力のある言葉」を創造するためだ。