ドイツ語のカント最初の山

この間、人倫の形而上学とそれを下敷きにした論文を、苦労して読んできた。実に辛い。記憶力が悪くなってきているから、度々辞書を引き、ドイツ語文法が分らないのか? 単語が分らないのか(一つの単語が文脈により多様な意味を持っている)。カントの言っている内容が分らないのか? が分らない。
数行読むのに、何時間もうんうんうなって考えてしまう。
結局、初級文法のミスだったりもするし、カントの思想が分らなければどうにも分らないこともある。
それでも、昨日授業があったので、朝から5時間ほど苦悶していたら、かなり前進した。何と、原書の誤植と思われる箇所を発見してしまった。mとnの誤植だが、それだけで文の構造が理解できなかった。最初から誤植と分っていたら数時間は節約できたのに。
カントの考え方は、かなり理解が進んだと思う。
カントは、とことん自由の哲学者だ。道徳を論じても、法を論じても、そして認識を論じても、自由がキーワードになる。
人間に自由な意志というものが本当にあるのか? 
実は、カントは自由意志があることを証明していないと思う。神の意志のみがあるのかも知れない。そして、人間は、主観的には自由意志を働かせていると思っているが、実はそれは神の意志によるものかも知れない。しかし、この問題は、人間の認識能力を超えたものなのだ。ただ、人間に自由意志がないと仮定すると、道徳に意味はない。自由意志を持たない者に責任はないからだ。しかし、これは間接的論証に過ぎない。その微妙なところが、永遠に人を引き付けてやまない。人間が自由に意志を持ち、それを行使しているつもりで、実は神の操り人形だったという展開の魅力は、否定しえない。それは、事前=自由、事後=必然、と言う話なのだ。哲学は消えない。