集団的理性、集団的情念、孤独な理性、孤独な情念

表題の四つの概念から、自分の言いたいことのかなりのことが表現できる。
情念が集団的であるということは、そこには集団のコミュニケーションの確固たる基盤があるということである。さらに、それは理性という客観的=共有するものの萌芽があるということではないか。孤独な情念は、集団的な情念を前提にしないで可能か?孤独は差異であり、差異は集団的に共通なものからの差異ではないのか? しかし他方で、自分の心の奥底から発せられる、自分だけの心情というものがある。それが、かつて実存主義者が唱えたものの基礎ではないだろうか? それは、孤独であり、自由であり、ある抑えがたい衝動である。それは、単なる傾向性であろうか? 考えてみよう。