現実的なものは理性的である

ヘーゲルの「法哲学批判」の、次の一節ほど議論を読んだものはないと思う。
それをネタに何万時間でも議論できる。
「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」

これは、「もし現実が非理性的なものであれば、それは破滅して現実は理性的なものとなり、そうした理性的なものこそ現実的なものなのだ」という、理性による革命派の論拠にもなるし、「現実にあるものは理性的なものであり、理性的であるが故に現実的なのだ」という保守派の論拠ともなる。

ヘーゲルを読めば明らかなように、どちらがヘーゲルの考え方に近いかと言えば、後者であろう。
しかし、それは、あるがままの現実が、そのまま「あるべき、永遠の姿」であると理解されれば、まったく誤っている。

本質は現象する。現実は、仮象、偶然的事象、みせかけなどを含み、そうしたすべてを含んで、本質は現象する。つまり、あらゆる偶然や仮象を身にまといつつ、法則的に生成・展開する現実がある。
それが理性的なものであると思うかどうか、こそが問題なのだ。
その理性的とは、単に論理的な過程と構造を持っているというにとどまらず、「あるべきものとしてある」=理念の完成への過程と言う意味である。
しかし、革命派にとって、革命的なことが破産し、保守的思潮が支配するようになれば、それは、あってはならない「非理性的」なものであると映ずるだろう。
それは、現実的であり、必然的だったが故に、理性的なのだと考えるのがヘーゲルであり、他方、成功した変革は、現実性を証明されたものとして、理性的なものであったとするのもヘーゲルだ。